最近は演出備忘録。
(※ネタバレあります)

人がみな腹の底に汚い臓物を溜め込み抱えながら辛うじて生きながらえているのは、汚泥のようなチミドロを掻き分けた向こう側から微かな光が差し込んでくるのを感じているからに違いない。映画「童貞放浪記」を撮り上げてから一年を経てようやく、こうして言葉にすることもできるが、一年前、もっとも重要なS#61を撮影しようとしていたその現場では、まだ朧気なイメージしかおぬまの頭には漂っていなかった。そのとき考えていたのはただ一つ。「手前より奥の方が明るいはずだ」と、それだけだった。

撮影最終日のことをなるべく正確に記したい。

朝起きて、一番気になっていたのはやはり天気だった。前日から携帯電話の天気情報を繰り返しチェックしていたためよく眠れなかった。晴れ時々曇りというのがその日の予報だった。雨が降らないのは吉報だったが、S#61は陽の光が差さないと全てが台無しになってしまうシーンだったので、なによりも雲の量が問題だった。撮り直しはスケジュール的に不可能だったため、もし曇ってしまったら曇った状態で撮るしかなかった。
撮影隊は朝8時に新宿を出発した。都内の川沿いに造成された緑深い公園に移動後、まずS#47を撮る。萌が初めて順の部屋に行くときの小さな会話のみのシーンだ。午前中は予報に反して曇っていたが、もしS#61を晴れた状態で撮れるのであればむしろ好都合であった。反復されるシーンは、同じように見えながら少し違うほうがより映画的だから。
神楽坂恵は2ヶ月半の蓄積が感じられる落ち着きぶりでほとんどのカットをワンテイクで撮ることができた。しかもこのシーンを撮り終えた頃から晴れ間が広がり、S#61は目論見通り晴れた状態で撮れるかに思えた。しかし、S#61の前半部分の撮影にやや手間取っていたところ、次第に雲の速度が速くなり、天空が不安定になりはじめた。携帯電話で天気図を見ると北のオホーツク海に大きな低気圧があり、南の台湾沖には台風がある。本州には日本海から高気圧が張り出しているため晴れの地域が多いのだが、二つの大きな低気圧の影響を受けて雲の動きが忙しい。空を見上げると雲の固まりが駆け抜けていく様子がみてとれる。予報では回復に向かうということなので、晴れるタイミングを待つために早めの昼食を入れることにした。
弁当を食いながら、やはり天気が気になってじっと空を見ている。数ヶ月間にわたって映画の準備をし、撮影を開始し、そしてそのクライマックスを迎えようとしている今、こうして晴れるか曇るかわからない天候も数ヶ月間ずっと移り変わってきた大気の過程としての現在を迎えているわけだ。複数のうつろう事象がある一点でなにものかの意志によって収束する瞬間。それは偶然に過ぎないが、それを誰かが“見る”ことによって少しだけ特別なことになるかもしれない。その見る行為こそこれから我々がしなければならない仕事である。
昼食休憩が済んでS#61の後半部分の撮影が始まった。これから撮影する部分で金井淳と北島萌は絶望的な決別を迎えることになる。あいかわらず雲は速く、ときおり太陽がその姿を見せるが、日が差す時間は概ね30秒~1分程度であった。また、本番中はカメラのフレーム内に通行人が入らないようにする必要があり、スタッフは平身低頭で駅へと向かう人たちを足止めさせなければならなかった。この日は土曜日で公園内は普段よりも人が多かったため、人止めに時間がかかった。急いでいる通行人はスタッフの制止を振り切ってカメラ前を通過していくので、その人がフレームの外に出るまで待つことになる。ようやくその人がフレームを外れて撮影を始めようとすると、今度は雲が太陽を遮ってしまい、再び太陽が出るまで待つ……その繰り返しが延々と続いた。
雲と通行人の間隙を縫いながら、なんとかあとワンカットというところまでこぎ着けた。最後のカットは一分程度の長回しで、おぬまが最も重要だと考えているカットである。アーチ状のガード下に横並びで配置された金井淳と北島萌はほとんどシルエットに近いぐらいの暗さの中でわずかに表情が捉えられる。重要なのはその背景で、公園内の木々のグリーンが日差しを浴びてやや飛び気味になる(眩しすぎて白くなる)くらい明るくなければならない。この、手前と奥の光の対比がこの映画の肝となる。
照明部が雲の動きを睨みながら本番のタイミングを計る。画のサイズはそれ程引いてはいないものの、望遠レンズで公園の通路を縦に狙っているため、やはり手前から置くまで通行人を止めておく必要がある。照明部から間もなく太陽が出るという指示があり、助監督と制作部が人止めを始める。このタイミングを合わせるのが大変な作業だ。太陽が出た瞬間にカメラが回る。通行人の方々にスタッフが声を出さないように平謝りでお願いする。長い芝居が始まる。カットがかかるまで太陽が隠れることはなかった。通行人が途中で飛び出すこともなかった。しかし、テイク1はNGとなった。神楽坂恵の演技がいつもの演技のままであった。北島萌の心が離れることで金井淳が徹底的に孤独になるシーンにしなければならない。そのためには萌の演技がこのカットでピークに達する必要があった。2ヶ月半の集大成にしなければならなかったが、それをファーストテイクで発揮することはできなかった。人止めが解除され、照明部が再び空を見上げる。待つ。ひたすら待つ。
テイク2は途中で太陽が陰り、テイク3は通行人がフレーム内に侵入してきたためNGとなった。雲は次第に量が増えているように見え、一分以上日が差すタイミングはもう何度も訪れないように思われた。やや大きな雲の切れ目が近づいているという報告が入り、このチャンスを逃した場合は曇った状態で撮るしかないという結論になった。S#61を曇った状態で撮影することはおぬまにとって演出的な敗北を意味していた。なんとしても次のチャンスで決めなければならない。
おぬまは神楽坂のそばに行って、演技的なピークを引き出すために言葉をかけることに決めた。どんなふうに言ったかをなるべく正確に書きたいと思うが、おぬまは普段からこんな言葉遣いなんだろうとかチンピラみたいだとか誤解しないで欲しい。おぬまと神楽坂は2ヶ月半リハーサルを経てお互いに呼吸のようなものを作り上げていたので、どういう言い方が神楽坂の良い部分を引き出せるかを、おぬまはそれなりに理解していたのだ。おぬまは足早に神楽坂に近づいて言った。
「てめえ、ふざけんじゃねえぞ。そんなんで、観ている人に何かが伝わると思ってんのかよ。伝わるわけねえだろ。芝居をなめんじゃねえぞ」
たしかこんな感じだったと思う。神楽坂はじっと聞いていた。その様子を山本浩司はじっと見ていた。それで十分だった。本当はそれだけ言って本番に行きたかったのだが、次がラストチャンスだったので一つだけ段取り的なことを付け加える必要があった。少し迷ったが、今の神楽坂の状態なら大丈夫だろうと踏んで言い渡した。
「淳の『愛してる』の台詞のあと、正確に10秒待ってから次の台詞を言ってください」
その時の神楽坂恵は本当にいい表情をしていた。その表情のまま「わかりました」と言った。これで演技は大丈夫だろうとおぬまは確信した。あとは太陽だけだ。
「出ます!」
照明部の声を聞いたスタッフが人止めを開始する。もう何度も通行人の行く手を阻んでいたため、野次馬なども発生して今までの何倍も時間がかかっている。すでに太陽は出ており、数秒間の時間のロスにも胃がキリキリと痛む。
「本番!」
本番体勢が整い、カメラが回り始める。通行人とスタッフとカメラと、そして空が二人の演技に注目しているように思える。
「よーい、スタート!」
奥が明るく、手前が暗い。でも、二人の表情も気持ちも感じることができた。1秒がとてつもなく長く感じられる。あらかじめ伝えておいた10秒の間(ま)は計ったように正確だった。二人の演技は文句の付けようがなかった。愛する人に愛されないことがこんなにもつらいものかと思った。
「さよなら」
そう言って北島萌は立ち去り、フレームの外に外れた。一人残された金井淳の徹底的な孤独。その時、雲が太陽を遮った。まるで空が金井淳の孤独を感じたかのように絶妙のタイミングで陰った。おぬまは呆気にとられて、あやうくカットをかけるのを忘れそうになったほどだった。こんなことってあるんだろうか。と、思う自分がいた。奇跡という言葉を軽々しく使ってはいけないけれど、それはただの偶然がただの偶然ではないと感じるに足る出来事だった。
「OKです!」
撮れた、と思った。
そして、ありがたい、とも思った。

まもなく「童貞放浪記」の撮影が終わろうとしている。
この映画を観てくれた方たちがどのような印象を持つのか一年前のおぬまには想像することすらできないが、この現場でおぬまやスタッフやカメラや通行人や空やこの世界の全てが“見た”ことを、時間と空間を超えて再び誰かが“見る”ことは、とても幸福な出来事であることだけは間違いない。それだけは確信していた。(終)

※概ねフィクションですよ!

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