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最近は演出備忘録。
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某日。やや雲が多いが暑さは相変わらず。エアコンのスイッチ、オン。製作会社の社長からアイスクリームの差し入れあり。みんなで他愛のない話。はじめは休みの日の話とかテレビの話とか。そのあと映画の内容に絡んだ話題。大学講師に取材して聞いた話とか、金井淳と北島萌は最初にどこで出会ったんだろうとか、 こういう男性を前にして女性はどんなふうに思うのかとか、萌ちゃんは本当はどうしたかったんだろうとか。アイスを食べ終えて、神楽坂恵がいつものように動きやすい服装に着替えてくる。シーンの簡単な動きを説明。大丈夫ですか? はい、大丈夫です。よーい、ハイ。動く。台詞。台詞。動く。待つ。台詞。台詞。 動く。見る。見ない。台詞。じゃあ、もう一度やりましょう。今度は頭からお尻までひたすら歩きながら台詞を言ってください。はい。よーい、ハイ。また最初 の動きに戻してやってください。はい。よーい、ハイ。今度は二人の顔をギリギリまで近づけて全ての台詞を囁いてください。はい。よーい、ハイ。次は一番遠くに離れて声を大きく出してください。はい。よーい、ハイ。では、また最初の動きに戻してやってください。はい。よーい、ハイ。演技の反復が俳優の身体に染みついていく過程がわかる。繰り返し繰り返し。でも少し変えて。また繰り返し繰り返し。
じゃあ、休憩しましょう。エアコンの温度を少し下げる。ペットボトルの水を飲む。他愛のない話。それから、映画についての話。話題は、山本浩司のキャスティング交渉が難航しているという内容であった。(つづく)

※概ねフィクションですよ!
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「“センス”は大変魅力的だけど中身は空っぽだからね」
本を読んでいたあざらしが突然お告げのように呟いた。ありがたく拝聴したおぬまは家を出て駅に向かいながら心の中で呟く。
「映画はドラマだ。センスではない」
「童貞放浪記」の脚本は半分以上が金井淳と北島萌のシーンで成り立っており、しかも北島萌が金井淳以外の人物と絡む芝居はほとんどない。残り約 一ヶ月半、神楽坂は金井淳と出会い、あんなことをしてこんなことをしてそんなことになる幾多のシーンを一つ一つ反復し、それを自分のモノにしなければなら ない。難しい作業ではあるが、その過程を見ることができるのはおぬまにとってありがたいことだった。北島萌と神楽坂恵のどこが違ってどこが似ているかをじっくり見極め、必要とあれば登場人物の性格や振る舞いを俳優自身に近づけることもできる。
まず出会いのシーンを簡単な動きのみの指示だけでやってもらう。大切なのは彼女がどのような演技プランを抱えて現場に臨んできたかを知ること。なので、あまり余計なことは言わず、すぐにやってもらった。
すでに一ヶ月ほどリハーサルを重ねてきた神楽坂は緊張したり、迷ったりすることはなく、しっかり自分なりのプランを持って最後まで演じた。そのこ とをまず確認できたことは良しとする。だが、演技そのものは「偏差値の高い女性」をあまりにも意識しすぎていた。役を演じようとする意欲はリスペクトすべきだが、自分を取り繕うように見えてしまっては何もかもご破算となってしまう。まず「こういう役を演じる」という意識を全部捨ててもらう。「私がそこにい る」ということだけに集中して欲しいと話した。もう一度、さっきと同じ簡単な動きだけでやってください。そう。東大卒とか、頭が良いとか、そういうことは 全部忘れて。一回、自分でやってみて。神楽坂恵で。
「映画はドラマだ」
撮影まで約一ヶ月半。北島萌と金井淳の間にドラマは現れるだろうか。
おぬまも神楽坂もセンスで勝負すべきでないことだけは確かだった。
(つづく)

※概ねフィクションですよ!
記憶と妄想が錯綜して時間軸が揺らいでしまったので、話をリハーサルに戻す。
夏の日差しが強さを増してリハーサルの前に必ずエアコンのスイッチを入れるようになった頃、神楽坂恵の頭にはすでに「童貞放浪記」の脚本に書かれた北島萌の全ての台詞が入っていた。リハーサルを始めるときも台本コピーを手にすることはなく、ぼんやりと目を泳がせながら台詞の内容とその言い回しを自分なりに反復している様子が見て取れる。オー、なんだか女優っぽいゾ、とおぬまは頻りに感心する。
おぬまが俳優に何らかの指示をするとき、メインキャストにはなるべく抽象的に、その他のキャストにはなるべく具体的に言うようにしている。出番の多い俳優は脚本全体から自分の役を大局的に理解しながら体全体で再現できるようにしなければならないので、具体的な指示は寧ろ障害になる。押しつけるの ではなく引き出すことが重要で、そのために監督は俳優をしっかり観察しなければならない。
いっぽう俳優は、役の構築を少しずつ深めつつしかしその役に閉じこもらないように注意を払いながら目前の相手役やそれを演じる俳優を意識したり 反応したりまたそこから自分の中にある役の解釈を引っ張り出したりするうちに自分と自分が演じる役と相手の俳優と相手の役と俳優達が演じている空間とその 空間を借りている現実の社会とそれを切り取ろうとしているカメラとマイクとそれらの視線そのものや世界の視線も含めたこの世界全体との区別がつかなくなる。だから俳優によっては現場と普段の生活の境界が曖昧になったりするのだ。とはいえ、そのようにできる俳優はそれほど多くないので、もしそういう役者の “入り方”を現場で目撃することができれば、映画に幸福が訪れる確率は高い。
主人公・金井淳には山本浩司だけが相応しいという点については、私やプロデューサー達の意見は完全に一致していた。ただ、当時まだ諸条件交渉中 で最終決定はしていなかったと記憶する。相手役が誰になるかを最も気にしていたのは神楽坂かもしれない。もし、天才・山本浩司が配役されることになれば、 この映画において最も懸念される課題は主役と準主役の演技的なバランスとなる。神楽坂にとってもおぬまにとっても残された時間はあまり多くないと言ってい い。(つづく)

※概ねフィクションですよ!
新宿TSUTAYAの邦画コーナーで、おぬまは「F.ヘルス嬢日記」を探していた。棚には官能系の低予算作品が並んでいて、一般の人にとってそれらは “AVよりはソフトで気軽に借りれるエッチ物”かもしれないが、我々のような少しでも映画に係わる者にとっては“才能豊かな先人たちによって達成された偉 業の数々”である。おぬまは畏怖の念を押さえきれず思わず大量のビデオをカゴに入れたくなったが、一度に何本も借りると結局延滞してしまうことを思い出 し、しかもそういうときはたいてい返却するときに「なんでこんなビデオを借りるのに△△円も払わなきゃいけないんだ」と作品に逆恨みすることもしばしば だったので、近頃は予め自制して一本ずつ借りるようにしていた。ああでも「女の細道 濡れた海峡」だけは勝手に手が伸びてしまった。師匠の傑作なので許してくれと自分自身に希いながらレジに向かおうとすると、背の高いビデオ棚に挟まれた狭い通路の奥から丸い顔をしたHさんが大量のビデオを詰め入れたカゴを両手に抱えてフラフラと近づいてくるのが見えた。おぬまが反射的に足をそろえると、Hさんはすぐ脇に立ち止まり前を見たままじっとしていた。おぬまはしばらく黙っていたがHさんが何も言わないので先日友人に三枚チケットが売れたことを報告しようと思ったところ、Hさんは徐に口を開いた。
「今度結婚することになりました」
あまりの驚きにおぬまは微動だにできぬまま、フラフラとレジへ向かうHさんを見送っていた。
大型レンタルビデオ店の棚に無数に並ぶ映画のすべてに始まりと終わりがあり、そしてその途中の山のような部分を人はクライマックスと呼ぶ。それが何に似ているかと考えれば、やはり淀川長治にならって「人生に似ている」と言うしかないだろう。
「おめでとうございます」
我に返ったおぬまはそう呟いたあと、洋画コーナーに移動して「愛の世紀」を探し始めた。(つづく)

※概ねフィクションですよ!
K先生とG舎のSさんとプロデューサーI氏とおぬまの四人がそれぞれ目の前に置かれたアイスコーヒーを一口ずつ飲んだところで、K先生が「あざらし」とい う単語を口にしたので、おぬまは『海洋生物に興味があるのだろうか』と二口目のアイスコーヒーを飲みながらぼんやり考えていたところ、話を聞くうちにどう やらそれは時折多摩川などに出没する海棲哺乳類のことではなく、おぬまの女房がブログを書く際に使用するペンネームのことで、つまりK先生はそのブログを 読んでいるという意味であることが判明した。ボクシングの試合だと思ったらいきなり蹴りが飛んできた。痛烈なダメージを負ったおぬまは、以降シドロモドロ 状態の受け答えに終始する。
しかし救いだったのはK先生の脚本に対する様々な指摘が、実際の大学講師事情と比較した場合のリアリティーの問題の範疇に留めるよう配慮してく れたことだ。どうやらK先生は「小説は小説、映画は映画」であり、映画作家のクリエイティビティーは尊重されるべきという非常に真っ当な(しかし我々に とっては天恵ともいえる)スタンスであるらしい。
助かったあああ。と安堵が思わず声になって口から出そうになったとき、K先生がある映画のタイトル名をあげた。
「『F.ヘルス嬢日記』はすごく面白かったですね」
その言葉はもちろん、「童貞放浪記」を映画化するのであれば「F.ヘルス嬢日記」ぐらいのクオリティーにはして欲しいという意味であることは明白だった。
そんなあああ。と突然の重圧が声になって口から出そうになった。
なんという、 ハードルの高さ! (つづく)

※概ねフィクションですよ!
神楽坂恵が人を殺す場面で感情の振幅を振り切ることができなかった。
喫茶店に向かいながら、あるいは緊張しないようにと考えたためなのか、おぬまは昨日のリハーサルのことばかり考えていた。
本人とは全く性質の異なる役柄なので、おぬまは試みに特殊な演じ方を彼女に要求した。それは、すべての台詞の合間に「あ」と曖昧に声に出してもら うことで、殺人鬼の不穏な思考回路に接続できないかと試みたように記憶している。その方法は台本の終盤付近まではまずまず効果を発揮していたが、肝心の拳 銃を突きつける場面で、神楽坂は感情を突きつけるまでには至らなかった。感情を抑制する術に長けているはずの悪。そのコントロールが破綻したときに起こる カオス、崩壊、惨劇にはならなかった。そのシーンは単に“殺人者が相手を殺す”のではなく“殺人者を知る男が殺人者に自分を殺させる”という作品全体のク ライマックス部分だった。自分の運命を呪う間もなく手を下してしまう、ドラマが偶然の断罪を受ける瞬間である。おぬまはやや感情的に神楽坂の腕を掴んで、 リハーサルの相手役を担当していたプロデューサーT氏の胸に乱暴に押しつけた。その拳銃を突きつける感触をおぬまは今喫茶店の椅子に座りながら思い出した のだが、突きつけ“る”感触と、突きつけ“られる”感触に違いはないのではないかと考えた。夢の中では人を殺す感触と人に殺される感触に違いがないことに 似ているように。やる、と、やられる、を行き来できる方法が、もしかしたらあるのかも……。
そんな論理のねじ曲げを自分の感覚に重ね合わせることで何かの言い訳にしようとしていたのは、今まさにK先生が「どうも」と言いながら目の前に座ったからに他ならない。(つづく)

※概ねフィクションですよ!
映画「童貞放浪記」の初稿が上がってから一週間も経っていないその日、おぬまはプロデューサーI氏とともに私鉄某駅の改札口で極度の緊張を伴いながら人を 待っていた。しばらくすると電車を降りてきたG舎のSさんが改札を抜けて我々と合流した。このあと「童貞放浪記」の原作者・K先生と会い、脚本についての 意見感想を伺うことになっているのだ。
映画にとって原作は全ての源であり、映画製作そのものを左右する巨大な存在である。例えば原作者が「脚本が気に入らないので今回は止めましょう」と鶴の一声を上げればすべてがご破算となる。もちろん原作者本人の意向にかかわらず出版社の商業的な思惑が優先されることもあるが、やはり最終的には 作家自身の考えが決定的な意味を持つ。もちろんそれは、原作となる小説や漫画の作家達の気分に左右される悲劇、ではなくて、すでに存在するストーリーを利 用して楽をしようという映画製作者達のスラップスティックと言ったほうが真実に近い。どんな結果になろうとも、自業自得と呼んでやるのが彼ら(映画を作る 者)のためだ。おぬまは、万一の場合自分の不幸を笑うことができるだろうかと、自虐的な気分を楽しむこともできぬまま待ち合わせ場所の喫茶店へ向かっ た。(つづく)

※概ねフィクションですよ!
原作が「童貞放浪記」に決まった。主人公・金井淳が誰になるかはまだ決まっていなかったが、神楽坂恵が演じる役が小説に登場する北島萌という役であること は確定したわけだ。小説は東大を卒業した三十男が童貞を捨てようと七転八倒する内容だが、北島萌は主人公が見初める大学の後輩で、映画ではヒロイン的な存 在となる。北島萌は東京大学の大学院まで進んだ才女であるが、いっぽう性格的には捉え所のない複雑な面も併せ持つ。原作が私小説であるため、北島萌が主人 公の視点からのみ描かれているのが、演じる側としては難しい点である。設定年齢は神楽坂とほぼ同じであるが履歴や性格はずいぶん違う。ただ等身大でやれば よいという役でないことは間違いない。すでに小説を読み終えた神楽坂がいつもより不安げな様子でソワソワしている。本番までに立ちはだかる様々な困難を、 自分の役が決まったことでようやく具体的にイメージできたのかもしれない。彼女があと二ヶ月でこの役を自分のものにできるかどうか、それがこの映画にとっ て最大の分岐点になりそうだ。
脚本の初稿が上がるまでのあいだ、別のリハーサル用台本を用意することにした。おぬまが神楽坂に渡した台本は、以前おぬまが助監督をしたテレビ 版・私立探偵濱マイクの「1分間700円」という作品のワンシーンである。殺人マシーンと化した浅野忠信が人を殺す場面で、神楽坂にはその殺人鬼の役を やってもらう。性別も性格も人生も何もかもが違う人物を演じるとどうなるかを確認しておきたかったのだ。
台本を渡して三日後、神楽坂は何も言われなくてもしっかり台詞を入れてきた。ただ暗記するだけでなく、役について考えながら何度も読んできたことがわかる。彼女がプロの俳優に少し近づいたような気がした。
自分もがんばらねば、とおぬまは強く思った。(つづく)

※概ねフィクションですよ!
俳優は柔らかくなければならない。では、硬い演技とはなんだろう? それは、自分、という中でだけの演技のような気がする。他者が存在しない。直線だけで構成されている。自分と他者を経由する“角度”が不在であることが問題なのではないか。溝口健二が俳優に「反射してください」と言っていたのはそういうこ とではないか。反射角を備えた俳優こそ、優れた俳優と言えるのではないか。そんなことを考えながら、おぬまはカーペットの上をゴロゴロ転がっている神楽坂恵を眺めていた。
寝転びながらの台詞読みは予想以上に効果的だった。神楽坂は自然に台詞を自分のものにして、意識を自分以外のところに向けることが出来ていた。 神楽坂も安心したのか「やりやすいやりやすい」と感想を述べている。しかし、すべてのシーンを寝転びながら演技させるわけにも行かないので、とりあえず再 び動きなしの座りっぱなしで台詞を読んでもらう。寝転んだときの感覚が残っているので、だいぶリラックスしながら、しかも台詞がきちんと入っているので途 中でつかえることもなかった。この調子を忘れないうちに、立ち芝居に戻す。
一度動きながら台詞を読んでもらったあと、今度は頭に入っている台詞をいったん全て捨ててもらった。状況設定から思いつく言葉を自由にしゃべっ てもらう。所謂エチュードである。おぬまはエチュードというヤツが嫌いだったが、台詞に拘りすぎてもらっても困るので芝居を作る過程としてやってもらうことにする。
こうして動きと台詞のスクラップ&ビルドを何度も繰り返した。俳優は柔らかくなければならない。反射角はまだまだ現れていないが、それは脚本が上がってからの話である。
「今日はこのぐらいにしておきましょう」
その日のリハーサルを終えたとき、大手出版G舎から「童貞放浪記」映画化の許諾が得られたという知らせが入った。(つづく)

※概ねフィクションですよ!
簡単な動きを加えて台詞を読んでもらったが、神楽坂恵はあきらかに戸惑いを見せた。手順を覚え、タイミングを確認し、尚かつ台詞を思い出しながらの作業な ので無理もないのだが、それにしてもあれほど滑らかに出ていた台詞が途端にぎこちなくなったのは、第一に彼女の性質が原因と見たほうがよい。神楽坂は同時 に複数のことを実行するのが苦手である……とおぬまは心の中でメモをしたあと、「休憩しましょう」と宣言してペットボトル入りウーロン茶を無闇矢鱈と飲ん だ。
それにしても、である。何かをしながら台詞を言う、という作業は演技の基本でもある。というか、そんなことはあらゆる人が日常、頻繁かつ自然に 行っていることなのだ。例えば、テレビのチャンネルを変えながら「え? CDって燃えないゴミなの?」と言ったり、煎餅の袋が手で開けられないのでハサミ を探しながら「ブラックホールって『時空の他の領域と将来的に因果関係を持ち得ない領域』のことなんだって」と言ったりすることは、普段の生活の中でよく あることである。なので神楽坂にはなんとしても“ながら芝居”を身につけてもらいたいと、おぬまは心をギュッと縮めた。
神楽坂は動きながらの台詞読みが上手くできなかったためか、「いや」とか「は」とか「うーも、そ、えや、あぐ」などと訳のわからないことを口走っていてややパニックに陥っていた。そんな彼女の様子を見て、おぬまは動きを単純化させることにした。
「じゃあ、次は寝転んだまま台詞を言ってください」
は? という顔をする神楽坂に、おぬまは神父のごとき穏やかな顔で繰り返す。
「寝転んだまま台詞を言ってください。寝転んだまま動かなくてもいいですし、時々寝返りを打ってもかまいません。自由にダラダラいい加減にリラックスして力を抜いたまま、台詞を言ってください」(つづく)

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